Hanacell

デミヤニュクの死

ドイツは、悪質かつ計画的な殺人について時効を廃止している。ナチスの虐殺など、人道に反する罪に加担した者は、文字通り死の床まで追い詰められる。21世紀に入っても、ナチスの戦犯に対する追及は終わっていない。

今年3月17日、1人の老人がバイエルン州のローゼンハイム近郊にある介護施設で息を引き取った。ジョン・デミヤニュク、91歳。彼は昨年、ミュンヘンの裁判所で被告席に立ち、ナチスのユダヤ人虐殺に加担した罪で有罪判決を受けた。裁判官は、この老人がポーランドのソビボール強制収容所の看守として働いたことで、2万人を超えるユダヤ人の死について間接的に責任があると判断したのだ。

元々ウクライナ人だったデミヤニュクは、ソ連軍兵士としてナチス・ドイツ軍と戦っていた時に捕虜になった。当時ドイツ軍は、ソ連兵の捕虜を残虐に扱い、食料や水もろくに与えなかった。捕虜たちは飢えと病気でばたばたと死んでいった。デミヤニュクはナチス親衛隊に忠誠を誓うことで、生き残る道を選んだ。

彼は1952年に米国に移住し、自動車工として働いていたが、強制収容所の看守だった疑いで1986年にイスラエルに移送され、裁判にかけられた。デミヤニュクは死刑判決を受けたが、別の裁判官が「本当に問題の看守かどうか確信が持てない」と判断したため、米国に送還された。だがバーデン=ヴュルテンベルク州ルートヴィヒスブルクにあるナチス犯罪追及センターが、デミヤニュクの身分証明書を入手。そこには、彼がソビボール収容所に派遣されたことが書かれていた。この身分証明書が鍵となって、2009年にデミヤニュクは米国の市民権を剥奪され、ドイツへ移送された。彼を殺人ほう助の罪に問う裁判は、彼のヨーロッパでの最後の居住地だったミュンヘンで行なわれた。

車椅子で出廷したデミヤニュクは、公判中黙秘を貫き通した。収容所で命を落としたユダヤ人の遺族ら約30人が、共同起訴人として起訴状に名を連ね、有罪判決を求めた。

一方デミヤニュクの弁護士は、「この人物が本当にソビボールの看守だったという証拠は何もない」として無罪を主張した。有罪判決後、被告側は控訴したものの、裁判所は「デミヤニュクは高齢であるため逃亡する危険はない」として、被告を釈放した。

無国籍者となったデミヤニュクは要介護者である上、ドイツで身寄りがなかった。彼が仕えたナチス第三帝国も、1945年に瓦解して存在しない。ローゼンハイム近郊の介護施設に引き取られてからは、ほぼ寝たきりの生活だった。

何も語らずに他界した老人は、本当に強制収容所でユダヤ人たちから恐れられた残忍な看守だったのだろうか。もしも仮に人違いだったとしたら、法廷で黙秘し続けることはなかったのではないか。私には、この老人の沈黙が、自らの罪を認める行為だったように思われる。

もしも第2次世界大戦がなかったら、この老人はウクライナの片田舎で平凡な一生を終えていたかもしれない。彼がソ連軍に招集され、ナチスに協力する道を選んだことが人生の歯車を狂わせた。ドイツや米国のナチス・ハンターたちは、数少なくなった容疑者たちを今日も追い続けている。彼らの探索は、容疑者の死が確認されるまで終わらない。日本とは異なり、過去と徹底的に対決する道を選んだドイツの厳しい決意が、時効を廃止した戦争犯罪捜査にはっきりと表れている。

8 Juni 2012 Nr. 922

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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